艶笑譚 ◆◆

艶句の世界

 

ある年の夏、青森で行われたレゲエのコンサートにバスを借りて三十名程で行ったことがあります。帰りは温泉にも立ち寄り、とてもいい気分を味わったのです。数日後、参加メンバー数人で話をしていたときのこと。その中の一人が「温泉で前を隠さないでいたのはマドさんだけでしたよ」と言い出したのです。おまけに「さすがですね」とおだてられもし、「大きさには全然自信ありません」と言いつつも、少々優越感を覚えたものでした。大衆浴場で前を隠すという習慣は私にはなく、その時も隠していないことすら覚えがなかったくらいです。しかし、思い起こせば中学時代、修学旅行の風呂場で一人が海水パンツ姿で入っていたのをこれ見よがしにバカにして、風呂椅子を腰にあて、真ん中に空いている丸い穴から自分のものをのぞかせて、彼の前で振り回したことを思い出しました。

ある日、『江戸上方「艶句」の世界』という本を読んでいたときのこと。ひとつの句に私は愕然としてしまいました。

    その憎さ・指似子隠してふろへ入

著者の解説にはこうありました。

「『指似子』は男の子のおチンチン。男のくせに風呂で隠すのはこましゃくれて憎いものだが、持ち物を恥ずかしく感じるのは、大きくなって来たのに気付くころである」と。

いやはやなんとも…。


仙台のあるクラブに友人のバンドが出演するというので、妻子を連れて行ったときのことです。なんとそのクラブはバドギャルがウェイトレスをしている店だったのです。バドギャルとはもちろん、ピチピチ超ミニで胸が大きくあいているビール模様のワンピースを身に付けた女性のこと。実物を目にするのが初めてだった私は、異常に興奮してしまいました。思わぬ 出会いや予想外の出来事に遭遇すると、人はいつもの数倍過敏になるものです。そして連れの選択を誤ったことに悔しさと憤りも感じていました。私のそんな状態を連れや他の客たちに悟られないようにするのも、これがまた大変な作業なのです。悪いことに私が座った席はステージの目の前。ライブを見ている人の視線の中にはいつも私がいた筈です。あんなものは眼中にないといった風を装いながらも、バドギャルが近くを通 るたび、目のスジが千切れんばかりの横目でその姿を拝見するのでした。頭の中は邪念だらけで、もちろん音楽どころではありません。最悪の条件の中、なんとかあの姿を眼(まなこ)に焼き付けることはできたのですが、天使達の顔をだれひとりとして覚えていないのは言うまでもありません。

そんな状態を歌った句があります。

    白い股・顔見る隙はなかつたり

「これは、はじめて白い股を見てしまった時の若者の正直な告白。そこだけに熱中していたので顔の美醜など確かめる余裕などはなかったというので、初体験と解することもできよう」(解説文より)


『江戸上方「艶句」の世界』は、色艶に関係する句を紹介している本で、八百余りの句が収録されています。それぞれに解説がなされていて、句に馴染みのない人でも楽しめる内容です。身に覚えのある出来事が数多くあり、私は最近おもしろく読んでいます。  序文の冒頭で著者は次のように語っています。  「俳諧においても、恋の句のない巻は、句数はそろっていても『はした物』として、完備したものとは認められていないように、人生において恋は花であり、これを抜きにして人生はありえない」と。

 


★参照…『江戸上方「艶句」の世界』(鈴木勝忠著・三樹書房)

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