艶笑譚 ◆◆

結婚

 

もしかすると結婚とは、自身を認識するためのある意味では最も有効な手段なのかもしれません。


私は以前、日本語教師養成講座に通っていたことがあります。そこでは、母語として使ってきた日本語を外国人に教えるために、外国語という観点から日本語を勉強しました。言い換えれば、それは内側から見ていたものを外側から見直すという作業でした。それによってふだん何気なく使っている言葉に、日本人の性格や価値観、思考様式などがかくされていることを知りました。日本語から日本事情を、日本事情から日本人を、そしてそれは日本人としての自分をあらためて見つめ直すことにもつながりました。

ふだんの生活のなかで、人との関わり方を考えてみた場合、自分自身も含めて、家族は母語のように何気なく自分と接しているはずです。それがあたりまえだからです。知人、友人、恋人はどうでしょう。きっと外国語を話すように接しているのではないでしょうか。知人は覚えたての外国語で、友人は日常会話程度。親友や恋人はほぼ完璧に使えるようになった外国語です。なんとなくそんな感じがしませんか?

そして問題の結婚です。結婚をそのまま日本語教師養成講座に置き換えることができます。結婚することによって、その相手と家族として接するようになりますが、これまで別々の家庭で生活してきた者同士がひとつの家族として暮らすことは、お互いの生活における価値観やスタイルのちがいを知ることにもなります。いままで無意識のうちに生活していた、自分にとっていちばん楽であたりまえのことが、相手にはそうでなかったりすることが多いはずです。そのちがいを通 してあらためて自分の生活事情を知ることができます。それはイコール自分自身の再認識につながります。自分にとっていちばん楽であたりまえのところにかくされている、ふだんはなかなか見ることができない部分にこそ、不覚にも本当の自分がひそんでいるのかもしれません。

 

◆   ◆   ◆   物入り   ◆   ◆   ◆

むがし、ある金持ぢの家(え)で、跡取りさ安心して身上(すんしょ)まがせられるような嫁さん探してだんだど。そしたどごろ、それなりの似合(にえ)え似合えの家に、しっかりした娘がいるどいうんで、貰うごどに決めだど。

金持ぢっていうのは、握ったら放さねえつうごどだが、そういう考え方で両家がうまぐいったんだべな、
「お互
(だ)げに無駄な物入りしねようにして、御祝儀あげんべや」
どなったんだど。そしてまず、無事お振舞
(ふるめえ)も終わって、次の日、お里見(里帰り)さ来るどいうんで、お母(が)さんが胡桃餅(くるみもづ)御馳走(ごっつおう)すんべて、胡桃擂(す)りしてだど。そごさ娘が来て、
「おらぁ、物入りしねえ約束でむがさった(嫁入りした)のに、嘘
(うそ)ばり語って。昨夜(ゆんべな)、大した物入れられだ」
って、ぷりぷり怒りながら言ったど。お母さんが笑いながら、
「何語る。それでいいんだ」
って言ったら、
「何良
(い)がんべ。人のごどだど思って」
って言うがら、
「この、馬鹿ばり語って」
って、擂粉木
(すりこぎ)でコツンとやったら、
「それぐれ大
(お)っきなの入れられだ。痛(い)でがった」
って泣ぎ出したどいう話だ。

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★参照…『みやぎ艶笑風流譚』(佐々木徳夫著・無明舎出版)

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