艶笑譚 ◆◆◆ 日本語は底なし沼
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 昔な、ある所(どご)に親父(おやじ)ど息子どいだたど。ある時、呉(け)だ娘の家(え)の建で前(め)さ呼ばれで、いい機嫌で帰(け)って来たど。 家の序の口さ来た時、曲がり角の大っきな石のどごで、親父あ、小便(しょんべん)したぐなったど。ジャージャーどやってんの見で、息子あ、 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
これは岩手県遠野市の語り手による『立ち小便』という一話です。 この手の笑い話は艶笑譚以外にも数多く存在しますが、ここにあえて紹介したのは、この一話のおもしろさが場面設定や状況説明に荷担するところが大なのではと思えるからです。「嫁に行った娘の家の建て前に呼ばれた」ことや「曲がり角の大きな石のところ」などは、一見この物語の内容にはあまり関係なく、それほど重要なものではないように思われるのですが、それをあえて語るのはなぜなのでしょう。たぶんこのような昔話は実体験をもとに、それを膨らませて語られたのだと思うのですが、そう考えるとこの父親と息子の関係もさらにおもしろいものになってきます。もうすぐ家に着くというのにどうして家の前で立ち小便をしなければならなかったのか。ほろ酔い気分の中にも、久しぶりに会った娘に感慨深いものを覚えた父親が、いずれは頼らなければならない親離れの進んできた息子との時間をまだまだ捨てがたく思い、なんとかそれを引き延ばそうという思いが連れションとなって現れてきたのです。そして息子の成長や大きさをさらに感じ「なーるほどな、なーるほどな」という言葉に逞しさやら寂しさやらが込められています。このなんとも情緒豊かな心情表現は、濁音の多い東北弁と相俟ってさらに聴くものの心に浸透してくるのです。きっと文学者ではないはずのこの一話の発案者に、わたしは頭が下がる思いです。 数年前、新聞の投稿俳句欄に目を通していたとき、わたしはひとつの句に出会いました。 芋煮会 小芋をひとつ みうしなう 川原での芋煮会の風景や、狙っていた小芋を見失ったときの悔しさなどが頭の中にめぐってきた私は、たった十七音のなかにどうしてこれだけのことが内包できるのかと、感銘させられてしまいました。ひとつのことを御託を並べてああだ、こうだと屁理屈いっぱいの文章が好きなわたしには、この上もなくショックでした。 そして先程の『立ち小便』。いやはや日本語は底なし沼だと、改めて考えさせられてしまいました。 父親と息子の関係を語った艶笑譚をもうひとつ紹介します。宮城県南方の語り手による『上と下の関係』という一話です。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ある息子がね、 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
★参照…『民話みちのく艶笑譚・第2集』(佐々木徳夫著・ひかり書房) |
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